そもそも教育とは何か?について考えてみた件

そもそも教育とは何か?

教育の背景とは

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合同教育はそもそも寺小屋に始まる。中世から始まり、江戸時代には上方が町人を相手に寺院で学問を教えていたことから由来している。そこが学校の原点とされる。もちろんそれ以前も教育の原点はあったが、学び舎としては、ここが基礎となる。明治維新と文明開化をきっかけに福澤諭吉の「学問のすすめ」をはじめとする教育書物が発行されるようになる。1872年(明治5年)に学制が勧められ今のような義務教育制度となった。その後、教育勅語をはじめとする愛国的教育哲学が教えられたが、第2次大戦で敗戦すると、教育勅語や軍隊関連の教育も廃止となる。その後、GHQの名の下に教育基本法が築かれた。この教育基本法が現在でも用いられている教育の原点にあたる法律である。その名の通り、教育は教え育むことを中心とした教育がなされ、「生きる力」を原点に回帰した教育が現在展開されている。また、一方でこれまでの寺子屋からなる歴史の中で培って来た座学を脱却し、「主体的な態度」の育成を求めている。すなわち、現在の教育ではこの2つがキーワードとなって勧めているのである。

 

 

現在の教育

現在の教育は、文部科学省が発布している「学習指導要領」に基づいて行われている。すなわち、全国に対して「最低限度ここまでやりなさいよ」と決めたルールである。よく読むとわかるが、内容は非常に曖昧に書かれている。このようにしなさい。くらいの優しい言葉である。これは、各地区の特徴・特性に合わせて書れれているものであるから、そういう曖昧な表現になる。

例えば、小学校・社会の記述:

社会生活についての理解を図り、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。 

そもそも論であるが、この一文を読んで何を教えるか、ピンとくる人がいるのだろうか。と言いたくなるが、現在のところ学習指導要はこのような表現である。ちなみに、公民的資質とは何かそこに至る経緯や解説がない為、何を持って公民的資質なのかが不明瞭である。こんな風に文部科科学省は非常に曖昧な表現を使い、多用してくる。今回の学習指導要領改定で、英語の教科化とプログラミング学習の教科化が必須となった。英語はグローバル化の中でいくぬく力として必須の能力として、プログラミングは、プログラミング的思考(論理的思考)を基準として目標設定されている。しかし、現在の教育の大きな問題点を解決せず、学習指導要領を改訂してしまっている。そもそも、小学校に英語のできる教師はほぼいない。また、プログラミング技術を習得している人もほぼいない。インフラが曖昧なのに施行しようとしているのだ。ほぼ無理矢理に・・・ 

 

曖昧な表現の学習指導要領+インフラなし=失敗する教育 

 

その良い例に「総合的な学習の時間」がある。当初、勢いよく実施されたが、現在では、ただコマを埋める為の役割しか担っていない。「総合的な学習の時間」とされクロスカリキュラム(2教科横断カリキュラム)やマルチカリキュラム(3教科以上横断カリキュラム)の言葉やその礎は築いたものであるが、内容は至って乏しい。中には、研究としてしっかりやっている学校が大半であると信じたいが、そうでない学校も数多くある。なんでもありの教科になってしまったのだ。その穴埋めをするかのように、プログラミング学習やSDGs学習を「主体的」「思考力」「表現力」を身につけさせようとしている。この方策はあまりテレビでは議論されないが、本当に大きな失策であると言える。なぜなら、曖昧な表現の学習指導要領だからである。さらに、繰り返すが、インフラ(インターネット環境、エアコン、人材など)がない中でやれることはない。かわいそうなのは子供達である。大人のルールに振舞わされているのだから・・・

 

 

 

教育とは何か

では、教育とは何か?それは、「主体的に学ぶ力」のことである・文部科学省の提唱していることに対して、反論や肯定をするわけではない。文部科学省と同じ意見・・・かも知れせん。でも、やはり、主体的に(自分で)学んだことは忘れない。勉強の仕方、エレクトーン、ピアノ、算盤なんでも良い。自分で学んだことは忘れないし、生きていく上での力となる。やはり、教育の原点はそこにあるではないかと考えられる。与えられたものをただこなすのではなく、自分からこなしていく力。これを育むことが教育の原点と言えるのである。

 

 

 

まとめ

教育は、幼児期、学童期、学生期それぞれに、それそれの教育の方法や仕方がある。確かに研究では、早期学習が学力を身に付ける力があったり、吸収する力も早い。がしかし、あまりに詰め込む事を多くしすぎているような印象を受ける。茨木のり子さん(〜2006年)の詩が教育にあまり似合うので引用させてもらいまとめとする。

 

 

 

ぎらりと光るダイヤのような日

 短い生涯
 とてもとても短い生涯
 六十年か七十年の

 お百姓はどれほど田植えをするのだろう
 コックはパイをどれ位焼くのだろう
 教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

 子供たちは地球の住人になるために
 文法や算数や魚の生態なんかを
 しこたまつめこまれる

 それから品種の改良や
 りふじんな権力との闘いや
 不正な裁判の攻撃や
 泣きたいような雑用や
 ばかな戦争の後始末をして
 研究や精進や結婚などがあって
 小さな赤ん坊が生れたりすると
 考えたりもっと違った自分になりたい
 欲望などはもはや贅沢品になってしまう

 世界に別れを告げる日に
 ひとは一生をふりかえって
 じぶんが本当に生きた日が
 あまりにすくなかったことに驚くだろう

 指折り数えるほどしかない
 その日々の中の一つには
 恋人との最初の一瞥の
 するどい閃光などもまじっているだろう

 <本当に生きた日>は人によって
 たしかに違う
 ぎらりと光るダイヤのような日は
 銃殺の朝であったり
 アトリエの夜であったり
 果樹園のまひるであったり
 未明のスクラムであったりするのだ

 

今回も読んでいただきましてありがとうございました。